世田谷と映画とは、とても深い関わりがあります。
小田急線の成城学園前駅を下車して、南口の住宅街をまっすぐに歩いて行くと、10分ほどで東宝スタジオが見えてきます。2000年代から撮影所のリニューアルが進み、ハリウッドのスタジオにならって、日本で最新の映画設備を誇る最大級のスタジオへと変貌をとげました。巨大な外壁にはこの地で誕生した「七人の侍」と「ゴジラ」が描かれています。また、入り口にはゴジラのブロンズ像も設置されました。日本映画ファンには、世田谷は、知る人ぞ知る映画の聖地なのです。
東宝スタジオの正面(提供:東宝スタジオ) Ⓒ1954…
現在の成城学園前駅の一帯がまだ、東京府下千歳郡字砧村と呼ばれていた1932年に、この「東宝」の前身である「写真化学研究所(通称:P.C.L.=Photo Chemical Laboratory)」が設立されました。映画フィルムの現像からはじまって、やがてトーキー映画の制作に乗り出すことになりました。その後「東宝映画」が設立され、「写真化学研究所」とこれを母体に誕生した「P.C.L.映画製作所」、京都の「J.O.スタヂオ」、映画の配給を行う「東宝映画配給」の4社が「東宝映画」に吸収合併されます。そして1938年には、1927年に誕生した「東京宝塚劇場」と「東宝映画」とが対等合併して現在の映画・演劇の会社、「東宝」となりました。
「東宝スタジオ展 映画=創造の現場」展示風景
世田谷美術館でも、2015年に企画展「東宝スタジオ展 映画=創造の現場」を開催しましたので記憶に新しいかもしれません。P.C.L.から始まる東宝スタジオの撮影所の歴史とともに、そこに集った美術家やクリエイターの仕事を紹介しました。 東京の郊外住宅地として発展した世田谷区には、かつて映画の撮影所やプロダクションが点在し、成城学園前駅の北口には監督や俳優、脚本家、音楽関係者などが、成城から祖師谷にかけては美術・撮影・照明といったスタッフの多くが居住していました。世田谷が映画の街であり、ハリウッドに例えられるのはそのためです。世田谷区内に撮影所があったことにより、とても豊かな文化的特性を持ったユニークな地域が形成されました。
* * *
それではまず最初に、洋画家で映画美術監督の久保一雄(1901年-1974年)による祖師谷界隈のスケッチからご紹介いたしましょう。久保は川端画学校で絵画を学び、卒業後は生活のために向島の日活撮影所で背景師として働きました。1933年にこの砧にできたP.C.L.映画製作所に入社して、本格的に映画美術監督の仕事が始まります。1937年から世田谷の祖師谷に居を構え、毎日のように撮影所まで歩き、目にした風景を描きとめたものと思われます。雑木林や畑が広がるのどかな田園風景がのびやかな筆致で描きとめられています。世田谷の地がまだ武蔵野の面影を残していた時代の記録としても貴重な素描作品です。
久保一雄《不詳(砧界隈風景)》1937年頃
久保一雄《不詳(砧界隈風景・並木)》1937年頃
久保は映画美術の仕事の傍ら画家・川口軌外に師事し、1974年に亡くなるまで毎年、独立美術協会展に作品を発表しました。生涯に500点に及ぶ油彩画を描いた久保は、生前には一度も個展をすることはありませんでした。久保一雄のお孫さんで画家の久保理恵子氏のご寄贈により、世田谷美術館には10点の油彩作品、11点の素描作品などが収蔵されています。
アトリエの久保一雄(『久保一雄1901-1974』展…
映画の仕事では、山中貞雄監督の遺作「人情紙風船」(1937年)、成瀬巳喜男監督の「鶴八鶴次郎」(1938年)、黒澤明監督「素晴らしき日曜日」(1947年)など、日本映画史を彩る名作が多数あります。本物と見紛うリアルなセット、照明が作りだす微妙な陰影、主役から大部屋までと層の厚い個性的な俳優たちなど、画面の隅々までに彼ら職人たちのこだわりが感じられます。DVDなどでこの時代の作品に今一度触れてみてはいかがでしょうか。
久保一雄の仕事(『東宝スタジオ展』図録より)
* * *
次にご紹介するのは、映画俳優で画家でもある花澤徳衛(1911年-2001年)の油彩画です。花澤徳衛といえば、渋い脇役としてたくさんの映画に出演されていますが、昭和世代にとっては「警視庁物語」シリーズ(1956−64年)の林刑事の役でお馴染みかもしれません。
神田に生まれた花澤は、小学校を5年で中退して指物師として修行。1932年に花澤美術家具研究所を設立して家具職人の道を歩みはじめますが、ここで知り合った職人仲間から油彩画の楽しさを教えられて、翌年には洋画家を目指して大阪の画塾で斎藤与里に師事しました。生活のために俳優として京都のJ.O.スタヂオ付属俳優養成所に入所し、東宝京都撮影所を経て、東宝東京撮影所(現・東宝スタジオ)の専属俳優となりました。1944年の上京から1990年頃まで、世田谷区内に居住しました。
花澤徳衛《すもう》1995年
花澤徳衛《不詳(自画像)》1995年
この作品は世田谷にお住まいだった区民の方よりご寄贈いただきました。亡くなった奥様がかつて映画の独立プロダクションに勤務され、そこで花澤と親しくなり作品を入手されたそうです。花澤の画歴はまだつかみきれていませんが、戦後に結成された日本映画演劇労働組合のサークルの仲間たちと活発に絵画展を開催したようです。あらためて作品を眺めてみると、俳優の余技を超えて、なかなかどうして味わいのある作品ではないでしょうか。
世田谷美術館には、本業とは別に画業を展開した素朴派(花屋のボーシャン、靴屋のメテルリ、郵便配達夫のヴィヴァンなど)の作品を多数収集していますが、彼らの作品にも共通する絵を描く愉しさが伝わってきます。英国元首相のウィンストン・チャーチルも日曜画家として著名(当館にも2点ほど所蔵されています)ですが、このチャーチルの名に因むアマチュア画家の会、「チャーチル会」が1948年に日本で設立されました。梅原龍三郎を顧問に仰ぎ、映画女優の高峰秀子や山本嘉次郎監督も参加したこの会に花澤も誘われましたが、「『チャーチル会って素人絵かきの会だろう、俺は美術史上の人物を師として、正式に絵を学んだんだ、そんな会には入らねえ』なんてハッタリをかまして断わった」と著書に記しています。
画業だけでなく文筆にも精力を注ぎ、前述の文章を収録した『花澤徳衛の恥は書き捨て』や『脇役誕生』といった著書があります。ご興味のある方は図書館などでご覧になってみてください。
展覧会の会場にて、作者の花澤徳衛氏と旧蔵者の勝原恵美…
* * *
最後にご紹介するのは、映画監督の成瀬巳喜男が旧蔵していた鈴木治(1926年-2001年)の陶芸作品です。京都に生まれた鈴木治は、轆轤(ろくろ)の名手として知られた父のもとで育ち、終戦後に陶芸家を志して活動を始めました。1948年に八木一夫、山田光、鈴木治ら京都の若手作家による前衛陶芸家集団「走泥舎(そうでいしゃ)」が結成されます。器の口を閉じた用途を持たない陶芸作品の出現は、陶芸の分野において革新的な出来事でした。世田谷美術館ではすでに鈴木の《春ノ木・萌芽》と《冬ノ木・待春》(ともに1997年)を所蔵しており、このたび初期の貴重な作例としてコレクションに加わることになりました。
鈴木治《黒絵壷》制作年不詳
さて、この作品の寄贈者は映画監督・成瀬巳喜男のお孫さんにあたる成瀬有氏です。成瀬監督は、世田谷にP.C.L.が誕生した頃に、「小津は二人いらない」と松竹の撮影所長に言われて移籍した映画監督でした。世田谷に居を定めて、女性の哀歓を描いた文芸映画の名作を次々と発表、成城が終の棲家になりました。世田谷文学館では、2005年に「〈第6回世田谷フィルムフェスティバル〉生誕100年 映画監督・成瀬巳喜男」が開かれ、展覧会とともに上映会やトークショーが行われました。文学館に成瀬監督の映画資料が収蔵された折、旧蔵の美術品は美術館で収蔵することになりました。《黒絵壺》は黒いスタンプ状の文様から推測すると1954年頃の制作と考えられます。成瀬監督の遺品であることは確かなのですが、残念ながらその来歴は不明です。この頃に成瀬監督は代表作となる「浮雲」(1955年1月公開)を製作し、国内の映画賞を総なめにしました。セリフを最小限にそぎ落とした映像美は、小津安二郎に「大人の鑑賞に十分耐える。大変なもんだ。(中略)今迄の日本映画の最高レベルを行ってるよ」と言わしめた作品でした。
「浮雲」で森雅之と高峰秀子に指示をする成瀬監督(『第…
* * *
世田谷美術館では、世田谷ゆかりの作家ばかりでなく、「芸術と素朴」をテーマに美術の愉しさや美術史を問い直すようなアウトサイダーズの作品、生活と美術にまつわる作品を収蔵する全国的に見てもユニークな美術館です。「気になる、こんどの収蔵品」では、他にもさまざまなエピソードとともに多種多様な作品を展示しています。6年ぶりに開かれる同タイトルの本展をこの機会をぜひお見逃しなく。ご来館をお待ちしております。