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刊行物

『山口薫展』

[カタログ/2008年発行]

-開催概要から-

世田谷のアトリエにて、郷里・群馬の原風景を描きつづけた画家

山口薫(1907-1968)は、群馬県の箕輪村(現・高崎市内)で農業を営む旧家に生まれ、豊かな自然のなか8男3女の末子として育ちました。絵を描くことが好きだった少年は、17歳にして画家になる決意を固め、上京して東京美術学校(現・東京藝術大学)に学び、在学中、早くも19歳にして帝展に入選。卒業後はすぐさまパリへ留学し、およそ3年の歳月を過ごして、画家としての人生をスタートさせました。1933年に帰国したのちは、世田谷・上北沢にアトリエを構え、そこで他界するまでの35年間を過ごしました。


<「自由美術家協会」から「モダンアート協会」へ>

帰国翌年の1934年、山口はパリ時代の仲間であった長谷川三郎、村井正誠、矢橋六郎らとグループ「新時代洋画展」を結成し、それが37年には「自由美術家協会」へと発展。この年、山口はちょうど30歳。画家としての地歩を固め、独自の画境を切り拓きはじめますが、時代は戦時下の混乱へと傾斜してゆきます。戦禍を逃れ、一時郷里に疎開していましたが、終戦ののち帰京して「自由美術家協会」を再建し、その後1950年には同協会を脱会して、村井、矢橋らとともに新たに「モダンアート協会」を設立。以後は他界するまで同協会を主たる発表の場としました。また、1953年以降は東京藝術大学にて後進の育成にも力を尽くし、生涯にわたって多くの才能を世に送り出しました。


<都市と田園のはざま、抽象と具象のはざまで>

こうして次第に日本の洋画壇にあってその存在を認められてゆくなか、山口は東京・世田谷のアトリエにてただ黙々と制作に励みました。また、欠かすことなく絶えず郷里の群馬に立ち返り、その風土から画想を得るとともに、そこで自作を発表しつづけてもいました。山口にとってふるさとは、遠きにありて想うものではなかったということになります。まさに、都市と田園のはざまにて行き来を繰り返しながら、抽象と具象のはざまで揺れ動く山口ならではの絵画世界を紡ぎだしていったのです。その画風は時代とともに大きな変化を見せ、抽象の度合いも深まってゆくことになりますが、しかしその画面から原風景ともいうべき箕輪村のイメージが消え去ることはなかったといえるかもしれません。馬や牛、水田や山々といった自然、あるいは身近な人々が織り成す日々の暮らしの片々をモチーフとし、かつ、洗練された洒脱な色彩や筆触、斬新な構成や造形感覚を駆使したその絵画は、多くの人々に新鮮な驚きと共感を与えることになりました。


<代表作を集めた回顧展、小品や資料などを含め全約140点を展覧>

山口が他界してすでに40年もの歳月が流れました。昨年は生誕100年を数える年でもありました。本展ではその山口の画業の全貌を、初期から最晩年まで、4つの時期に分けてご紹介いたします。また、単に時代ごとの代表作を展覧するのみならず、特定のモチーフへのこだわりや、作画上の創意工夫を感じさせる小品群にも目を向け、アトリエにて思索を重ねていた画家・山口薫の素顔にも触れてみたいと考えています。山口の独自の絵画世界を改めて通覧する本展が、その名を初めて聞くことになる若い人にとっても、また、すでにその魅力をつぶさに知る人にとっても、さまざまに新たな発見がもたらされる好機となることを願っています。

出品内容:油彩・110点、水彩・8点、スケッチブック・11点、レリーフ等・17点

目次

「山口薫展に寄せて」酒井忠康

「山口薫 その芸術環境と画風の変遷」定松晶子

「渡欧期の山口薫」原舞子

「戦前期・自由美術家協会時代の山口薫」杉山悦子

カタログ

1 初期・滞欧期(1925-1933)

2 帰国直後・戦中(1934-1945)

3 戦後(1948-1955)

4 後期(1956-1968)

5 造形についての考察―4つのテーマ

構図から(1)/菱形のバリエーション/構図から(2)/スケッチブックから

6 油彩小品・水彩の世界

7 資料

「鏡・夢・影 絵画が生まれるとき」黒田亮子

「大正の自由画運動と「山口薫・中学時代絵日記」の世界」山口哲郎

「思い出の中の山口薫―見立ての眼、記憶の形―」田口安男

「父のこと」山口保輔

「父、山口薫の生誕百年に当たって」石田絢子

「父」山口杉夫

山口薫 年譜

山口薫 没後文献表

出品目録

山口薫 展覧会発表作品一覧



奥付

編集:群馬県立近代美術館(染谷滋、定松晶子、佐藤聖子)、世田谷美術館(杉山悦子)、三重県立美術館(原舞子)

デザイン:U. SHIMA

製作:株式会社求龍堂

印刷:光村印刷株式会社

発行:読売新聞東京本社、美術館連絡協議会 ©2008

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