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企画展
【展覧会概要】18歳になる少し前、日立市から上京した田中信太郎(1940-2019)は、ほどなくして反芸術と称されていたネオ・ダダの活動に参加しました。現代美術家の篠原有司男と行動を共にし、短い熱狂の時間を体験した後、田中は大きく制作の方法を転換させ、ハートの形を援用したり、ネオン管を使用したりしたシンプルな形態を持つ作品を発表し一躍注目されます。この時、デザイナーの倉俣史朗と出会い、倉俣の急逝まで親しく交流します。田中は、制作者の感情から離れたところで表現を成立させようとすることを試み始め、パリ青年ビエンナーレやヴェネチア・ビエンナーレなど数々の海外展にも参加しました。しかし、田中はアトリエを世田谷から日立へと移し、東京の美術界の喧騒から離れ、内省的な制作環境に身を置くことを選択します。大病を患った後、1985年に再び大きく作風を変えて復帰。作品は色彩豊かになり、平面と立体を組み合わせた複合的な姿をとるようになります。このように田中は同じことを繰り返さず、新たな作品の在り方を提示し続けましたが、常に視ることを基点に美術の本質を探究し続けていたといえるでしょう。本展覧会では、アトリエに遺された作品を中心に、書き留めた言葉とともに田中信太郎の活動を振り返り、その静寂の奥に潜む創造の謎に迫ります。【展示構成】・日本国内では未発表の1970年の絵画作品から、晩年に探求し続けていた平面作品、そして亡くなるまで継続して製作した金属によるドローイングまで、アトリエに遺された作品を中心に40点弱で構成。・ヴェネチア・ビエンナーレ出品作など、いままであまり展示されてこなかった作品も含まれる。・1960年代から70年代にかけて、世田谷の祖師谷にアトリエを構えていた時の作品図面や資料も展示。【展覧会の見どころ】今、田中信太郎を振り返る19歳で篠原有司男に出会い、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズに参加した田中信太郎。その後、作風を変え、造型の原理を追求していく。美術評論家・東野芳明に「ネオ・ダダの気弱な弟」と評されたこともあったが、ネオ・ダダのメンバーにして、1970年に中原佑介が企画し、日本の美術史に大きな足跡を残した国際展「人間と物質」に出品したのは田中しかいない。美術の動向の変化に流されず、独自の表現を探究した田中の作品を時系列で展覧する。作品を一堂に観る貴重な機会60年代以降の日本の前衛美術を語るうえで重要な作家の一人であるにもかかわらず、回顧展はこれまであまり開かれてこなかった。生前は2001年に国立国際美術館で、2014年にBankARTで大規模な個展が開かれたのみ。2000年、一周忌に合わせて市原湖畔美術館で回顧展が開催されたが、コロナ禍のために訪れることのできなかった人も多かっただろう。ファーレ立川や越後妻有トリエンナーレでのパブリック・アート作品がよく知られているが、都内の美術館では東京国立近代美術館とアーティゾン美術館に収蔵されている程度であり、本展は作品の前に改めて立つことのできる貴重な機会となる。実は、デザイナー・倉俣史朗の盟友田中信太郎は、1967年に倉俣史朗と出会い、意気投合する。1968年に倉俣がデザインした「西武百貨店カプセルコーナー」では、協力として名を連ねた。また、デザイナーや写真家、美術家がジャンルを超えて結成したグループ「サイレンサー」でも行動を共にしている。1986年の旧ブリヂストン本社ビルのロビーデザインを倉俣が手がけた時には田中も彫刻作品を設置。以降、倉俣がデザインした店舗のいくつかには田中の作品が組み込まれた。倉俣が亡くなるまで、田中は倉俣のそばに居続け、互いに刺激し合っていた。

イベント
クラマタデザイン事務所に在籍時、倉俣史朗と田中信太郎を間近に見続けた五十嵐久枝さんに、在りし日の二人の姿について語っていただきます。

イベント
2004年から企画展開催期間中の毎週土曜日に開催してきた名物イベント「100円ワークショップ」。小さいお子様から大人の方まで、どなたでもその場で気軽にご参加いただけ、その時に開催中の展覧会に関連した満足度の高い創作体験ができる人気講座です。企画・運営:世田谷美術館鑑賞リーダー(美術館ボランティア)●100円ワークショップについて 詳しくはこちらをご覧ください