Ars cum natura ad salutem conspirat

岡山県・美咲町、東京・銀座の2丁目、そして世田谷


 「吟香(ぎんこう)」、という人物、ご存知でしょうか。一般には広く知られているとはいえないかもしれませんが、実はこの方、岸田劉生のお父様にて、幕末から明治にかけて波乱の人生を歩んだ人、本名は岸田辰太郎(1833-1905)。岡山の山村に生まれながらも学問で身を立てて、江戸に上って藩士となり、また離婁の明をもって次々と新しい事業を興した破格の大人物、歴史的な先覚者でした。

 去る10月の末、この吟香の生地である岡山県の山間部、美咲町を訪れました。清々しい秋晴れの日、地元の方に車でお連れいただくこと数時間、辿りついたのは山あいの小さな村落。そこで現在も「岸田」の姓を継いで暮らしておられるご老人にお目にかかりました。村はずれの山の斜面には、苔むした数十の墓石が並ぶ岸田家代々墓所があり(ちなみに吟香以後の墓所は東京・谷中にあります)、そこから眼下を見渡すと、その風景はさながら江戸末期のままのごとく感じられました。

 この地より吟香が江戸に出府したのは弱冠18歳のとき。ペリー来航の一年前、1852年のことでした。以来、時代の激流のなか吟香は、最初期の和英辞典や新聞の編集・発行に携わり、記事も書き、広告も作り、また日本初の水溶性目薬「精錡水」を製造販売しました。そこからさまざまな事業を興して財を成し、さらにはその財を投じて盲唖学校を創設したり、苦学生たちを援助したり、あるいは中国との文化交流に貢献するまでに至りました。

 そんななか1875年、吟香は現在の銀座2丁目に「精錡水」の販売店「楽善堂」を構えます。文明開化を絵に描いたようなこの瀟洒なレンガ造りの2階建ての建物は、実は住居も兼ねており、岸田劉生(1891-1929)の生家となったわけです。劉生は吟香がもうけた7男5女のうちの第9子・4男で、ことのほか都会的な環境で幼少期を過ごしたことになります。いわば大きな商家のお坊ちゃん、都会っ子、ということですね。

 14歳のときに両親が相次いで他界し、劉生は亡父の影響でクリスチャンの洗礼を受けるとともに、中学を中退して本格的に絵を学びはじめることになります。ちなみにその約10年後、劉生はわずかな期間ですが、世田谷にも住まっています。当時の地名では、荏原郡駒沢村。その意味では劉生、「世田谷ゆかりの作家」ということになるでしょう。岡山県の美咲町と世田谷とを繋ぐひとつの歴史の道筋ということにもなるでしょうか。


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