Ars cum natura ad salutem conspirat

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向井潤吉から宮本三郎へ


 7月29日(日)まで宮本三郎記念美術館で開催中の、「同時代の二人―向井潤吉と宮本三郎」。この展覧会は、二人が1930年前後、近所に住み、親しい交流があったことが企画の発端となっています。ともに世田谷ゆかりの作家であり、作品を各分館でご覧いただくことができるのですが、今回は25点ずつ、全50点の作品をテーマや時代ごとに分類・展示し、二人の共通点と差異が浮かび上がるようにしています。

 その調査の過程で見つかった、今回展示をしている初公開資料が1点あります。宮本三郎を偲ぶ、向井潤吉からの弔辞がそれです。

 宮本三郎が亡くなったのは、1974年10月13日のこと。この弔辞は宮本が創立メンバーであった二紀会の葬儀の際に送られたものですから、「昭和四十九年十月二十一日」(1974年10月21日)と日付があります。

 「宮本三郎さんへ」ではじまり、「静かにお休みください」で終わるその一文は、二人が出会った当時にも触れられていて興味深いのですが、特に印象深い箇所をご紹介したいと思います。このような一節です(旧字を新字に改め、句読点を補いました)。


「貴君を気軽るに天才と呼ぶ人が居るかも知れませんが、それは貴君にとって甚だ迷惑な言葉だろうと推測しています。私は天才という曖昧で安易な言葉にある反発を感じて、あくまで貴君は努力の上に尚努力を積み上げた稀有な達人であったと敬服しています。

鋭利な頭脳、不屈の進求、停止を知らぬ試みと展開、描くという作業に生命を刻みこんで精進したその尊とい姿は、あの北の国の海鳴りのように、私の追憶の中に響いて永久に消えることがないでしょう。」


 卓越したデッサン力への賛辞として、宮本三郎はしばしば世間から「天才」と呼ばれました。それに対し、「努力の上に尚努力を積み上げた稀有な達人」と語る向井潤吉の言葉からは、若かりし頃から互いの仕事に関心を払い続けてきたからこその、二人の関係性の一端が如実にあらわれているように思います。


 弔辞は、二階展示室手前、エレベーターを出てすぐのところの展示ケースでご覧いただけます。展覧会をご覧になった前後に、ぜひご一読ください。


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